教えのやさしい解説

大白法 514号
 
器の四失(うつわのししつ)
「器の四失」とは、器が器として用(はたらき)をなさない「覆(ふく)・漏(ろ)・汗(う)・雑(ぞう)」の四つの失(とが)(欠陥)をいいます。
 これは、天台(てんだい)大師の『法華文句(もんぐ)』に、
「過去の根浅く、覆漏汚雑し、三慧(さんえ)(しょう)ぜず」
とあるのに対し、妙楽(みょうらく)大師が『法華文句記(もんぐき)』に、
「聞慧(もんえ)なきがゆえに、器の現に覆するがごとく、思慧(しえ)を闕(か)くるがゆえに器の漏るがごとく、修慧(しゅえ)なきがゆえに器の汚雑(おぞう)せるがごとし」
と釈(しゃく)されたところに由来(ゆらい)します。
 大聖人は『秋元(あきもと)御書』において、
「器は我等が身心(しんしん)を表(あら)はす。我等が心は器の如し」(御書 一四四七n)
と信心の在(あ)り方を器になぞらえ、
「器に四の失あり」(前 同)
と、覆・漏・汗・雑が衆生の成仏を妨(さまた)げる要因であると御教示されています。
「覆」とは、覆(くつがえ)る、覆(おお)う、蓋(ふた)が閉(し)まっている等の意(い)で、正法を信じようとせずに我が身の仏性(ぶっしょう)を開かないことをいいます。この「覆」を大聖人は、
「仏の智慧の法水(ほっすい)を我等が心に入(い)れぬれば、或(あるい)は打ち返し、或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆ひ、或は口に唱へじと吐(は)き出(い)だしぬ」(前 同)
と示され、仏の智慧の法水である文底(もんてい)下種(げしゅ)の南無妙法蓮華経を求めない姿に譬えられています。
「漏」とは、器から水が漏れることの意であり、いつまでも水が溜(た)まらないことは、正法(しょうぼう)を聞いても持続性(じぞくせい)のない姿勢に譬えられています。大聖人は、
「或は少し信ずる様なれども又悪縁に値(あ)ひて信心うすくなり、或は打ち捨て、或は信ずる日はあれども捨つる月もあり」(前 同)
と仰せられています。
「汗(う)」とは、汚(けが)れ、汚(よご)れるの意で、生命の汚(よご)れによって正法を聞いても汚(けが)してしまうことをいいます。大聖人は、
「水浄(きよ)けれども糞(ふん)の入(い)りたる器の水をば用(もち)ふる事なし」(前 同)
と示され、もともと汚れている器に清水(せいすい)を入れても、それを飲むことができなくなるように、法水は清浄(しょうじょう)であっても、我見(がけん)・慢心(まんしん)等で生命が汚れているならば、信心も歪(ゆが)み、利益(りやく)も得(え)ることができないのです。
「雑」とは、混(ま)じるの意で、正法に邪義を混入(こんにゅう)させることをいいます。大聖人は、
「或は法華経を行ずる人の、一口(ひとくち)は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏なんど申すは、飯(めし)に糞(ふん)を雑(まじ)へ沙石(いさご)を入れたるが如し」(前 同)
と、妙法を信受しながら余事(よじ)を雑(まじ)えることの愚(おろ)かさを説かれています。
 この覆・漏・汗・雑の四つの失のない完璧(かんぺき)な器を完器(かんき)といいますが、
「信心のこゝろ全(まった)ければ平等(びょうどう)大慧(だいえ)の智水乾(かわ)く事なし」(同 一四四八n)
と仰せのように、私たちの信心が堅固(けんご)であれば仏の平等大慧の智慧の水も満々となり、即身成仏の本懐(ほんかい)を遂(と)げられることを知るべきです。